秋川地域の民権運動 秋川市史p1140

秋川地域の民権運動 秋川市史p1140

秋川地域の民権運動と困民党

 神奈川県下の民権運動は、全国を通してみてもかなり活発な地域としてみることができる。なかでも三多摩(南・北・西多摩の三郡)は指導者を輩出し、日本ではじめて結成された政治党派・自由党の中に、一五八名という多くの仲間を送りこんだ。町田、八王子、日野、五日市などは拠点地となっており、大挙して加盟している。

 西多摩郡の中では、とりわけ五日市が多く、秋川、青梅がこれに続く。五日市は、内山安兵衛や深沢権八ら若手グループと、馬場勘左衛門や土屋勘兵衛・常七兄弟ら老年在地名望家グループと、千葉卓三郎や永沼織之丞ら仙台藩士族出身のインテリ外来グループとが非常にうまく融合し、運動を飛躍的に押し進め、注目すべき拠点地となっている。なかでも千葉を中心として学習し、討議し、起草した「五日市憲法草案」は、現憲法にもつながる民主主義的内容を持った憲法草案として、民権史上としても高い評価をうけている。

 さらに五日市地域では、この時期、こうした政治的な活動ばかりではなく、公立の小学校(「勧能学校」)を舞台とした教員たちの活動や、衛生問題と取り組んだとみられる結社(協立衛生義会)があり、民衆憲法を創造した"場”として注目されている。

 それでは一体、この五日市と隣接する秋川地域の運動はどうだったのだろうか。予想外にも、五日市民権運動の傘下にはない。五日市の指導者で、勧能学校の教員でもあった千葉卓三郎は、草花村の開明学舎に明治十一年四月から十二年一月ごろにかけて教員として在職していたことが確認されてはいるが、五日市の民権運動が昂揚する十四、五年にかけた時期に、草花村をはじめとした秋川地域の運動と連携をとろうとした形跡はない。五日市の中心的な政治学習結社「学芸講談会」にも、秋川関係者は一人もいない。ただ明治十八年に入って三月の「憲天教会」(仏教関係者と五日市の民権家の混成グループで結成した結社で、仏教の教えを学ぶと同時に、民権学習も行ったものと推測されている)には、山田村能満寺(伊藤鼎洲)、雨聞村地蔵院(棲梧臨翁)、代継村金松寺(村松南山)、
p1141
引田村宝泉寺(宮崎拙隻)の住職と姫井靹浦(牛沼村)、中村某(雨間村)、久野木文三(同前)ら七人が名をつらねている(全員で三五名)。

 また同じころ、五日市で結成された「協立衛生義会」(衛生上の知識の普及を目指した組織で、衛生についての演説や学習会を行っている。集会条例等から免れるための一種のカモフラージュした民権結社と推定されている)には、副会頭職の影山真玄(引田村)を筆頭に、同村の海老沢俊斎、海老沢峰章、牛沼村の姫井靹浦、二ノ宮村の静原寛十郎、小川村の堀部勘兵衛ら六人が参加している。

 このことから、秋川地域では学芸講談会や学術討論会などの政治的な内容の組織には参加していないが、衛生問題など生活に密着した組織には賛同者が多くいたことを示している。

 例えば、八王子と五日市を結ぶ郵便路線の復旧を求める運動にも瀬戸岡為一郎(瀬戸岡村)をはじめとし、各村人民惣代及び戸長ら全員が名をつらね、駅逓総監の野村靖に宛て願書を提出している。これもまた五日市をはじめ周辺村の商業上の既得権回復要求運動である。つまり、これまで東京→横浜→八王子→五日市へと伝達されてきた情報が、八王子←→五日市間を断ち切られ、八王子→拝島→青梅というルートを通ってから五日市へ入る廻り道路線になったことに対して、それでは生糸や繭の相場の情報が遅くなり、商業上不利益を蒙ることになるので、ぜひ元に戻してほしいと要求している。秋川地域の養蚕農家へも、少なからず影響が出ることが予想され、五日市、秋川地域全村あげての運動を展開したのであろう。

 次に松方デフレ政策のもとで多額の負債をかかえた、明治十七年の負債農民の動きをみると、平井村や大久野村(日の出町)の農民たちと呼応して「西多摩困民党」ともいえる動きを示している。まず、八月二十三日、平井村の山野丹二郎宅に五六名(草花村一九名、菅生村三名、平井村二四名他)が集合したのを皮切りに、同じ日に渕上村で農間金貸